土地家屋調査士 清水 正明 の身辺雑記
メタンハイドレ−トで資源大国に 2012/02/05(日) 10:09:32
2月2日のテレビ報道によりますと、次世代のエネルギ−資源として期待される「メタンハイドレ−ト」の本格的試験採掘が、独立行政法人海洋研究機構の地球深海部探査船(ちきゅう)により2月14日から渥美半島沖ではじまるとのことです。
近年日本近海の潮岬沖から四国、九州の沖の南海トラフには世界最大のメタンハイドレ−トが埋蔵され、その埋蔵量は、天然ガス換算にすると日本で現在消費される天然ガスの約96年分と言われていました。
メタンハイドレ−トは「燃える氷」とも言われ、メタンを中心にして周囲を水分子が囲んだ形になっている包接水和物で、高圧・低温の海底下や凍土下でシャ−ベット状に固まっている物質で、採取にはコストがかかりますが、2008年8月清水建設、北海道大学、北見工業大学、ロシア科学アカデミ−の共同チ−ムは、バイカル湖の湖底からウオ−タ−ジェットで湖底を攪乱、ガスを湖水に溶け込ませて採取に成功、又昨年5月には愛媛大学院理工学研究科のグル−プは、液中プラズマでメタンハイドレ−トを分解し,水素として採取する技術を発表しましたので、今や決して”夢の国産資源”ではなくなったのです。
すでに経産省は、2008年に2019年からの実用化する方針を出しましたが、ここ数年来の資源の逼迫、資源ナショナリズムの高まり、地球温暖化対策の問題、まして東電の福島第一原発の災害による電力供給の原発依存意識の転換等により、第2のエネルギ−としての太陽光や風力は日本の気象環境からすると、直ちに原子力の代替えエネルギ−としての決定打ではなかったのですが、昨年7月からの南海トラフの和歌山県沖の調査に加えて、今回は陸の近い南海トラフの最北部の渥美半島沖70−80kmとは、平成18年実用化の目処が付いたものと期待するものです。
太平洋側のメタンハイドレ−トは、南海トラフ等の深海(3,000m位)の地下300m〜500mに分子となって埋蔵されているので、この実験では減圧法というストロ−の先にポンプを付けたようなもので吸い上げ、メタンガスを気泡化して分離する方法を採用するとのことで、調査開発に今年度予算約85億円計上されて、本格的採取実験に入ったのです。
ところで、昨年3月30日「チャンネル桜」(YouTubeにて公開)で、独立総合研究所自然科学部長の青山千春氏は、日本海側の佐渡から直江津を結ぶ辺りの水深1000m位の海底には、こぶし大の固まりがごろごろ露出しており、海底でもごく浅い100m位の所にメタンハイドレ−ト濃縮帯があり、そこからはスカイツリ−(メタンプル−ム)のような高さの泡が出ているので、魚群探知機で容易に発見出来ることを発見、この魚群探知機を使用した調査方法は、平成16年から日本、韓国、アメリカ、ロシア、オ−ストラリア、中国で青山千春氏は特許を取得して言う。この泡にはズワイ蟹が集まっていることも知られており、佐渡南西部ならすぐにでもピストン打法で採掘できるのであるが、青山千春氏は佐渡南西部や奥尻島附近を調査しただけであるが、予算さえ付けば、その他の日本海側の水深の浅い海底にもあるだろうと推測している。
したがって南海トラフのような深海部で「減圧法」による採取をする必要はなく、軽易な「ピストン打法」でも採取が可能だろうと言っている。
メタンハイドレ−トは、石油や石炭に比べ二酸化炭素排出量も約半分、すぐにでも佐渡島南西部のメタンハイドレ−トを採取して実用化するとともに、平行して南海トラフ等深海部の採取の現実化、実用化は2018年を確定的なものにしてもらいたいものです。
既存の液化天然ガスを利用した発電装置(約30基)にメタンガスを利用するには変換プラントが必要になりますが、浜岡原発で建造中の18mの防潮堤設置予算1,700億円と比べると微々たるものです。
東京都の石原知事は、昨年7月の記者会見で「自前の100万キロワット発電所」を発表、9月14日の関係プロジェクトチ−ムの会合では天然ガス発電で都有湾岸地域を候補地として建設費は1,000億円程度であると発表されました。
ところで第二次世界大戦以降中東に大規模な油田が発見された時、独自に採堀技術と資本を有しない国では、巨大な資本を持った欧米の石油会社に独占採掘権を売り渡した。これによって石油開発の集中化が進み、石油メジャ−という巨大な多国籍企業が生まれたが、1970年代になると資源ナショナリズムが強まり、石油国有化する国が相次ぎ第四次中東戦争によるオイルショックが起きたのですが、現在もイランの核開発の問題とからみ、ホルムズ海峡閉鎖が最大の外交問題に発展しています。万一ホルムズ海峡閉鎖にような事態になれば化石燃料の80%&は輸入できなくなるということが、明日にでも起こり得ることを考えると、CO2が低く、廃棄物が少なく、しかも危険性が低いLNG発電なら、過疎地の雇用の創出にも繋がり住民の反対も少ないだろうと思うのです。「脱原発」を叫んでいるだけではなく、「災い転じて福となす。」ためにもメタンハイドレ−トを中心とした国家戦略を樹立してもらいたいものです。
かなかなや和算の円理丸ばかり 2011/09/27(火) 08:57:46
拙句の季語の「かなかな」は、蝉の一種である蜩(ひぐらし)のことです。蝉は日本には32種が分布しているそうですが、特に多いアブラゼミ、ニイニイゼミや蝉の抜け殻である空蝉も夏の季語ですが、蜩と法師蝉だけは秋の季語になっています。
ではどうして蜩ではなく「かなかな」としたのでしょうか。算額は和算の解析学に精通した人でないと、平仮名と大小の〇や△、木に書いた幼児の絵本に見えると思います。
和算の円理とは、円周の長さや円の面積、球の体積といった円や弧に関する算法で、世界に誇れるものですが、高度の理論なるが故に「かなかな」と「丸ばかり」で優しく柔らかく、かつ滑稽さも出したのです。
江戸初期の日本では、円周率を3.16と外来の算術書を準用されていましたが、有名な和算家であつた現在の藤岡市生まれの関 孝和は、天和元年(1681)には小数点以下11桁の円周率を発表、その後、微分・積分の一歩手前までたどり着いたと言われます。これは西洋数学のニュートンやライブニッツの発表より少し前で、鎖国時代であっても算額により和算は急速な進歩をもたらしたのです。
宝永5年(1708)関 孝和死亡後は、関流和算として多くの弟子達に受け継がれ、幕末に西洋数学が導入されるまでは、算額により庶民も和算を学ぶことができたのです。
算額とは和算の問題や解法を板に書いて、解析できたことを報謝して神社・仏閣に奉納し、又それを見た者が他の解法を書いて技を競い合ったものですが、江戸時代の17世紀後半からのものが各所に現存しています。
特に多い地域は関東地方や東北地方で、福島県一番多く次いで岩手県と埼玉県だそうです。長野県の木島平村には5ヶ所の社寺に8面もあります。これは雪深い山村の炬燵文化の賜ではないでしょうか。
愛知県には安城の桜井神社に、関流清水林直の門人長谷部宇兵衛延之が、文化2年(1805)奉納された点竄術の解法がありますが、比較的新しいので色褪せずに明確に見えます。
江戸後期になると商家や農家などからも和算に長けた者が現れ、萩原信芳や剣持章行などの遊歴算者まで現れ、福田理軒は安政3年(1856)最先端の測量書「測量集成」著し、その子福田治軒と内田五観も測量学にも精通して、幕末以降は和洋に通じる算術家として、明治の大事業地租改正の丈量、特に欠円面積の出し方などを指導しているのです。したがって面積測量については、我々の先輩として忘れてはならない人々です。
太平洋戦争後は「もの作り大国」として、早くは渦巻き蚊取り線香から電気炊飯器、自動販売機、ウォシュレット、医療機器では胃カメラ、CTスキャナー、最近では小惑星探査機の開発まで解析学・幾何学及び手先の器用さで製作していますが、算額で技を競い合ったことがあればこそと思っています。
鎮守の森は嘗ては腕白の遊び場所でしたが、今は閑散として「かなかな」がこの近くにも学舎はあるよと教えているようです。
月下美人の花と孫綽の詩そして娼婦俳人 2011/09/09(金) 08:50:30
近年地球温暖化の影響か、あるいは肥培管理が行き届いているのか知りませんが、夏の季語の月下美人の花が晩夏に咲き、そして秋になってもう一度咲くものがよく見掛けます。
月下美人はメキシコが原産地サボテン科ですが、扁平の茎にはサボテンのような棘がなく、真夜中に数時間開花して夜明け前にはしぼんでしまう一名女王花とも言われ、美人薄命の喩えにもなっているのです。
「気まぐれな月下美人や碧玉歌」と詠んだのは、実は立秋が過ぎてから2度目の開花をした時、なんとなく中国の東晋時代の代表的詩人孫綽(そんしゃく)が「碧玉破瓜時 相為情顚倒 感郎不羞郎 回身就郎抱」の詩、一般的に碧玉歌と呼称されているものを思い出し、現代の思春期の娘と重ねて詠んだものです。
碧玉とは微細な石英の結晶が集まって出来た鉱物で宝石の一種ですが、孫綽の詩は美しい少女のことだと思います。この漢詩の破瓜と言う語は百科辞典によりますと、1.瓜を縦割にした八+八で16才の女子、2.八×八で64才の男子、3.初体験で処女膜損傷あるいは処女喪失等とありますが、孫綽の破瓜時は2節以下から判断しますと、上記の1.と3を合わせたものと解されるのです。
三国志演義によりますと後漢末期(192年)に、暴虐を繰り返す菫卓(とうたく)誅殺のため王允(おういん)が養女を使い薫卓の養子呂布と密通させた時の少女が、中国の四大美人の一人である貂蝉(ちょうせん)と言われ、その頃貂蝉は16才であったとのことです。三国志演義は東晋時代から1000年以上も後の明の時代に書かれた後漢末・三国時代の歴史物語の奇書と言われていますが、東晋時代からこのような伝説があって、これをヒントにして孫綽が詠んだ漢詩だと私には思えてならないのです。
東晋時代とは中国の西普王朝が劉淵(りゅうえん)の漢により滅ぼされ、司馬睿(しばえい)によって江南(現在の南京)地方に建てられた王朝(317年−420年)ですから、孫綽は貂蝉なる美女の伝説も知っていたと推測できるのです。
俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)「おくの細道」で文化元年(1804年)大地震で2mも隆起する前の象潟を尋ねて「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠み、海に浮かぶ九十九島の向こうに見える鳥海山の秀麗な姿を合歓の花に、そして憂いの美女と言われる西施を想い、拙句は月下美人の花を見て、月隠れの美女と言われた貂蝉を想像しているのです。
孫綽の「碧玉破瓜時」は赤裸々は人間の性を詠んでいますが、我が国にも伝説の「娼婦俳人」 と言われた鈴木しづ子と言う大胆に性描写した人がいます。
彼女は大正8年(大正14年説あり)東京神田に生まれ、昭和15年専修製図学校卒業後、工作機械工場に勤め社内の俳句部に入り句作をはじめ、松村巨湫を知り主宰誌「樹海」に属し句作に励むことになります。
昭和21年第1句集「春雷」を上梓したところ、たちまち5千部を売り尽くし戦後のベストセラ−第1号になりますが、私生活では同僚と結婚するも半年で離婚してしまうのです。
その後心境の変化があったのかどうか ♪こんな女に誰がした・・・・と、うらぶれ酒場から流れる昭和24年頃、彼女は岐阜市に流れてダンスホ−ルで働き、やがて那加(各務原市)進駐軍専用キャバレ−KBKで黒人兵ケリ−と出会い同棲するようになるのです。
この頃詠んだ句は 黒人と踊る手さきやさくら散る 黒人兵の本能強し夏銀河
ところが昭和26年初夏にケリ−は朝鮮戦争に派兵され、短期間に極度の麻薬常習者になって変わり果てた姿で佐世保に帰還したのです。しづ子は献身的に看病するも心身を病んだケリ−は母国テキサスに帰ることになってしまい、昭和27年の正月ケリ−の母よりケリ−急死の報が届くのです。
この年傷心のしづ子のために、師の松村巨湫が第2句集「指輪」を刊行するのですが、その出版記念会の時に人前に出たのが最後で、その後は誰も姿を見ていないのです。ところが暗い時代背景がなせることか、「鈴木しづ子句集改訂増補版」は近年売れに売れているのです。
欲るこころ手袋の指器に触るる
想像するだけで赤面する大胆な句ですが、鈴木しづ子がどこかで生きていれば大正8年生まれとすると92才位、大正14年生まれとすると86才位、彼女は現在の世相をどのように写生するでしょうか。2度咲きの月下美人の開花を見、しぼむのを見ると、自ら身体を痛め付ける16才の美少女から孫綽の詩そして伝説の俳人鈴木しづ子と思いは馳せてしまうのです。
奇怪な伝説と奇怪な実話 2011/07/28(木) 08:11:08
「白南風や伊勢の阿漕の潮騒ぐ」
「阿漕」は三重県津市の阿漕ケ浦にまつわる伝説や歌に由来する地名ですが、ここは平安時代以降伊勢神宮の御厨となって漁穫物を奉納するための漁区になっていました。このことは類題和歌集「古今和歌六帖」に出て二首の歌がありますが、この和歌のように、伊勢神宮と阿漕の漁民との間に、いざこざが絶えなかったことを歌で伝えています。
<伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり>
<いかにせん阿漕ケ浦のうらみても度重られはかわる契りを>
その後、この伝説は様々な話に創作されて、室町時代末期には「謡曲・阿漕」ができ、江戸時代になると「阿漕平治物語」と浄瑠璃の「勢州阿漕浦平治住家の段」ができて、病身の母のために、病によく効く「矢柄」(魚の名)を禁漁をしたと言う「孝子物語」で芝居に登場するようになったのです。
謡曲「阿漕」を要約しますと、九州日向の国の僧が伊勢神宮参詣のため、阿漕浦に辿り着き、ここで老いた漁師に出会います。僧は「阿漕浦」の名の謂われを尋ねましたところ、その漁師はこの浦は伊勢神宮に供える魚を漁る場所で、殺生禁断の浜であるが、阿漕という名の漁師が禁断を破って密漁した事が露見して海の底に沈められたことから付いた地名であるとのこと。その漁師は罪の大きさに地獄に堕ち、今も呵責に苦しめられているので、弔って欲しいと自らその亡霊であることを明かして消えます。
旅僧がその阿漕の成仏を念じて読経しますと、阿漕の亡霊が再び現れて禁断の網を引き、旅僧の読経にも救われずに、捕った魚に身を責められ地獄の火に身を焼かれ、助け給えと頼みつつ再び海の底に消え去ります。
このことは能でもポピュラ−な演目になり、しかも欲張りで図々しいことを国語辞典では「阿漕なこと」と解説され、時代劇でも悪代官や悪商人を「阿漕な奴」と言われています。
ところで、56年前にこの浜に近い津市の中河原の遠浅海岸で、中学校女生徒の水泳訓練中に、多数の女生徒が水深1m位の所で一瞬の内に水死する事件があったことをご存知でしょうか。
事件は昭和30年7月28日当時の新聞各紙の見出しには「津の女生徒水難事件」として掲載されましたが、一瞬の間の約100名が溺れ、36人が溺死するという悲惨な事件です。
事件は海に入って2・3分後一斉に身体の自由を失い、救いを求める声に驚いた教職員や水泳部員の懸命の救助にもかかわらず、引き上げられた49名の内13名は懸命な蘇生処置により一命をとりとめたのですが、36名は溺死する事件があったのです。
この事故の原因は「異常流」とか「急激な水位上昇」とかの説がありますが、後日ある週刊誌の記事により、次のような怪談として語り継がれるようになったのです。
「空襲で亡くなった霊が生徒達を海底に引き込んだ。」これは生存者の一人の手記を基にしていますが、一緒の泳いでいた同級生が”あれ見て”としがみついてきたので、沖を見るとその辺を泳いでいた同級生が次々に波間に消えてゆき、黒い固まりがこちらへ向かって来る。それは何十人もの女の人でぐっしょり水を吸い込んだ防空頭巾を被り、もんぺを履いていた。その者達は足にまとわり付いて離れなかったとのことですが、このことは複数の人が同じようなことを言っているのです。
ところで丁度それより10年前の同じ日には米軍の大空襲により津市民250余人が死亡し、火葬しきれない遺体は、この海岸に穴を掘って埋めたという某郵便局長の証言が出るに及んで、益々奇怪な事件になり「阿漕」とともに現代に語り継がれているのです。
「新姨捨考」姨捨のまろみそむなり蕗の薹 2011/07/14(木) 17:00:45
これはJR篠ノ井線で松本方面から冠着トンネルを出た途端、線路の法面に薹が立った(花茎が伸びたこと)蕗の薹が沢山見え、姨捨駅を通り過ぎてから後方を振り返って俗にいう姨捨山を見ると、芽吹きがはじまりまろみ初む感じで、棄老伝説があったとは思えない山は、優しく神々しい姿に見えて詠んだものです。
「姨捨」の名は、姥を山に棄てた男が、名月を見て後悔に耐えきれず、翌日連れ帰ったという「大和物語」などによるものですが、深沢七郎の小説の同名映画「楢山節考」で緒方拳と坂本スミ子の迫真の演技により一躍有名になったのです。
大和物語は950年頃成立した我が国では最も古い説話ですが、日本各地に様々な棄老の風習が民話や伝説の形で残っており、柳田国男の「遠野物語」にはデンデラ野の棄老風習が紹介されています。
しかし「姨捨伝説」が生まれた通称姨捨山も「遠野物語」のデンデラ野も棄老をするような死の谷はなく、各地で死者を棄てたと言われる穏亡谷のような険しい場所ではないのです。デンデラ野は清水が湧き、食べられる蕗・蕨・ぜんまい等山野草の豊富な土地を老人達に与え、運命共同体としたとの説もありますが、姨捨山は運命共同体として自給自足はできるような所はなく、棄老をするような死の谷でもないとしたら姨捨伝説はどうしてできたのでしょうか。
俗称姨捨山は明治以降は冠着山と統一された名称になりましたが、文字通り高貴な人が冠を被った形の山で川中島平から一望できる山、「わが心 なぐさめかねつ さらしなや 姨捨山に照る月を見て」と「古今和歌集」(905年)に作者不明の一首がありますので、この歌に基づき棄老伝説とともに月の名所になったと想像されますが、世界各地にあったハンセン病患者の遺棄は、我が国にもあったかも知れませんが、口減らしのための棄老の事実はあったとは思えません。
ところで、姨捨から直線距離にして約35kmの上田市(旧丸子町)の腰越の千曲川水系の武石川が依田川と合流する少し上流の右岸に、鳥羽山洞窟遺跡という風葬の洞口がありますが、ここは昭和41年から約3ケ年かけて調査の結果、5世紀中頃から豪族の葬所として使われ、蟾蜍が大きく開いた口の舌のような岩に、川石を3段に敷きその上に屍体を置いた状態で人骨があり地元では曝葬と呼んでいますが、まさしく風葬で、人骨や遺品は丸子郷土博物館に展示され、洞窟は昭和53年に国史蹟に指定され原形保存がされているのです。
旧丸子町にはもう一つの風葬の地と言われる宝蔵寺岩谷堂洞窟も昭和5年に発見されていますが、本土で風葬の原形が残る地はここだけですから、この事実が更級の地に伝わり脚色されて姨捨伝説になったとも思えてならないのです。
第52代嵯峨天皇のお后橘嘉智子(850年没)は、仏教の信仰篤く日本最初の禅寺壇林寺を建立したことから壇林皇后とも呼ばれた方ですが、ご自身の亡骸は遺言により「埋葬せずどこかの辻に遺棄せよ、又腐乱して蛆がわき白骨化していく課程を絵師に「九相図」(朽ちる九段階の経過図)に描かせよ。」と命じたそうですが、これは万物永遠な物はないことを世に知らしめ、人々に仏心を呼び起こそうと意図したものと言われます。その後僧たちは妄念を棄てて修行に励み人々も信仰が篤くなったとの逸話がありますが、これは風葬の趣を示唆しているのではないでしょうか。
※実はこの随筆が校了した頃、佐藤友哉氏原作の「デンデラ」が映画となり、6月25日に封切りされましたが、この監督は「楢山節考」の今村昌平監督のご子息の天願大介氏、出演者は浅丘ルリ子、倍賞美津子、山本洋子、草笛光子その他錚々たる50人の老女優、極寒の地で”生”のために何を願い、何を望んで生き抜いたか一度鑑賞したいものです。
一円相の碑と禁葷酒碑について 2011/05/18(水) 12:50:14
一円相の碑と禁葷酒の碑は、筆者の菩提寺の参道の両側にありますが、本年度愛知県土地家屋調査士会総会資料は、その表紙を飾る写真・書画を会員から募集しましたので、一円相の写真を応募しました結果、運良く採用になりました。
一円相の碑とは、〇だけが刻まれた素朴な碑ですが、中国の僧燦禅師(606年寂)は一円相について、「円(まどか)なる形は太虚(天空・虚空)の実相を意味し、そこには不足のものや、余分なものが全く見られず、そのすべては円満そのものである。」と説かれています。
これは禅における書画の一つで、床の間の掛軸には、白地に墨痕鮮やかに一筆で丸を描いたものも各所にあります。
禅画の解釈は、見る人それぞれに任されているそうですが、平成22年度には土地家屋調査士制度制定60周年の記念行事が無事終了し、丸い望月や一円相のように途切れることのない制度として国民に定着し、益々発展するよう祈念して一句詠み、そして撮影したものです。
「いしぶみの一円相や望の月」(会報2010年11月号ちょうさし俳壇)
一方参道右側の禁葷酒の碑は禅寺の特徴で、葷(くん)とは葱・韮・大蒜などの匂いの強いもの、酒は文字通り酒臭い者で、これらの者は山門を入るなと言う意味ですが、中には「不許葷入山門」と刻まれているものもあります。 今年のNHKの大河ドラマは「江」ですが、江の実父浅井長政の子孫薫誉智香尼が中興した京都深草の等泉寺や武田家の祖武田信義の菩提寺である韮崎の源成寺などのものが有名です。筆者の菩提寺のものは下掲写真のとおり篆書のような特徴のある字体ですが、紀元前中国を統一した秦始皇帝は、権力を誇示する手段として小篆文字を統一書体にしたとのこと、当菩提寺も鎌倉時代に南禅寺や鎌倉浄智寺の住持を歴任した見山崇喜和尚が開山した古刹ですから、秦始皇帝に肖って篆書体の碑を建立したのかも知れません。
「参道の禁葷酒の碑梅匂ふ」(会報2011年3月号ちょうさし俳壇)は境内からは梅花の馥郁たる匂いが漂い、現在の寺は人間分け隔てなく招いているようですが、これを詠んだものです。
{写真上は総会資料と一円相の碑、下は禁葷酒の碑}


歴史的仮名遣いを忘れないために 2011/04/28(木) 08:30:52
「ひらがなのル−ツ探しぬ春の蝶」この句は、羽化したばかりの春蝶が、菜の花の上を優しく柔らかく舞う情景を見て詠んだものです。
一部には平仮名や片仮名はヘブライ語のアルファベットを基に創作したとの説はありますが、平仮名は平安時代の西暦900年頃漢字の草書体から考案され、片仮名は西暦800年頃漢字の一部分を簡略表示する目的で考案されたというのが定説になっています。
あいうえおを例に採りますと、安=あ、以=い、宇=う、衣=え、於=お、片仮名では阿=ア(阿の左側の部分)伊=イ(伊の左側の部分)宇=ウ(宇の上の部分)江=エ(江の右側の部分)於=オ(於の左側の部分)ですが、蝶は歴史的仮名遣い(旧平仮名)では「てふ」であり、その語源の漢字は天不なのです。
天は天空、不は否定する意を表していますので、まさしく天高くではなく、菜の花や小川のさざ波と上をすれすれに優しく舞う様子が見えるようですが、これを能村登四郎は「初蝶の空より未だ地を慕ふ」と詠んでいます。
ところが昭和21年内閣告示第33号による現代仮名遣いは、表音表記を目指しながら、歴史的仮名遣いと妥協したものもあり、昭和61年内閣告示第1号によりやや改善されましたが,基本的には変わっていないのです。
表音表記の妥協の産物で主なものは、「これわ」が「これは」「私わ」が「私は」「私お」が「私を」「私え」が「私へ」などの助詞がほとんどですが、何か釈然としないものがあります。
昭和61年7月1日内閣告示第1号の前書きの、2.には、この仮名遣いは、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般社会において、現代の国語を表すための仮名遣いのよりどころを示すものである。3.には、この仮名遣いは、科学、技術、芸術その他専門分野や個々の人の表記にまで及ぼそうとするものではない。とされ、直音のうち「ぢ」「づ」「を」だけは上記の助詞の場合と、同音連呼「ちぢみ」「つづみ」「つづく」などと、二語連合の「はなぢ」「そこぢから」「いれぢえ」「まぢか」などの例外があります。
なお、平成22年内閣告示第2号により常用漢字が改正されましたが、これとて仮名遣いと同様に効率的で共通性の高い文字を分かりやすい文章にするための目安(答申前文)ですが、某市では小野道風,藤原佐理,藤原行成を教科書日本史Bやセンタ−試験問題でも明確な三蹟を三跡と説明しているのです。
いずれにしても漢字だけでも一般に使用される八体と、仮名でも片仮名、平仮名しかも現代仮名遣いと歴史的仮名遣い、その上変体仮名等多様な文字文化がある国は類例がないと思うのですが、表音(音韻)による現代仮名遣いに対して歴史的仮名遣いは、平安時代の優雅な情景が見えるようですので、決して退化させてはならないと思うのです。
お水送り・お水取り神事「春を待つ心」 2011/03/05(土) 20:06:12
「若狭より奈良に流れむ春の水」この拙句は、奈良東大寺二月堂の「お水取り」(修二会お香水汲み)は、これが終わると春が来ると古来言われる春の兆しを待ちわびるポピュラ−な神事ですが、これに先がけて毎年3月2日には若狭の小浜市の神宮寺の鵜の瀬でお水送りの神事があり、10日間かかって二月堂の「若狭井」に届くと言われていますのでこれを詠んだものです。
話は変わりますが、現在の政治情勢は混沌としており足の引っ張り合いをしていますが、お互いに妥協し修正しても予算関連法案を年度内に可決してもらわなければ、経済の活性化による景気の回復はありませんので、「春よ来い」ということも背景にはあって詠んだものです。
法務省民事局の統計によりますと、表示に関する登記の申請事件数は、平成21年は平成13年に比較すると43.6%と激減しており、昨年はまだ数値が出ていませんが21年より下回っていることは、住宅着工戸数などの統計により想像できます。
もしも平成23年度の税制改革法案の租税特別措置法が廃案になった場合は、我々や建物の売買又は建物新築を目論んでいる人にとっては大打撃で、登録免許税は住宅の保存登記では現行の0.15%が4月1日以降では0.4%、所有権移転では現行の0.3%が2%と大幅に増加し、不動産の流通は益々減少してしまいます。
ところで、お水送りは、火と水(動と静)の神事で、夕闇が迫る神宮寺の回廊から大松明を振り回す達陀(だったん)という火の行法からはじまり、境内の大護摩に火がつけられると炎は最高に燃え上がります。そして大護摩から松明に火を移して、住職は閼伽井のお香水を竹筒に入れ、法螺貝の音とともに山伏姿の行者や白装束の僧侶を先頭に大勢の人たちが遠敷(おにゅう)川の上流鵜の瀬に向かいます。
鵜の瀬の河原では大護摩が焚かれ、住職が岩場からお香水を遠敷川に注ぎ、夜8時半頃送水神事は終わりますが、このお香水が10日間経て奈良二月堂の「若狭井」に届き3月12日の深夜大松明の神事となるのだそうです。
このお水取りの神事は752年(勝宝4年)にはじまった修二会(しゅにえ)のメインの行事で、東大寺を開山した良弁僧正(689−774)の高弟で、若狭神宮寺に渡ってきたインドの僧実忠和尚が、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼2ケ月前から創始して以来1259年も続く伝統的な行事だそうです。古来インドでは陰暦の正月の7日間、国家の安泰と人々の豊楽を祈願した行事が実忠和尚により我が国に伝わって動と静を表現する神事になったようです。
東大寺の要録には、勝宝4年実忠和尚が二月堂を建て国中の神々をお招きになって修二会という行法をはじめられた初日、若狭遠敷明神だけが漁に夢中になって遅れ、修二会が終わる2日前になって現れたそうです。遠敷明神はお詫びのしるしに二月堂のご本尊にお供えする閼伽水(あかすい)を若狭から送ろうと約束され、神通力で若狭の鵜の瀬から二月堂の下まで地下導水路を堀り、二月堂の大地を穿ったところ白と黒の二羽の鵜を飛び出し、この穴から泉が出ましたので若狭井と名付けたそうです。
もちろん科学では立証が出来ない事象ですが、1年後の勝宝5年には鑑真和上も来日し乱れていた佛教の戒律を正していますので、その頃より一時低調だった遣唐使による大陸の先進文化の受容も盛んになり、貿易使も兼ねて経済発展にも寄与したようです。8世紀末には大唐帝国の栄華にも翳りが出、寛平6年(894)菅原道真が黄巣の乱による唐の国内の混乱により遣唐使を中止するまでは、若狭は遣唐使による大陸文化の玄関口であったのです。
遣唐使が中止されてからは渤海との交流が延喜19年(919)頃まで続き、季節風を利用して若狭から越前方面に渤海使の来航が多かったようですが、天平の文化である貴族中心の佛教文化は、インド・ペルシャ・アラビアなどの文化をもとりいれ、律令国家の発展に反映して、壮大・華麗な文化が定着した頃でもあることを思うと、現在の限られた器の中のものを奪い合う、醜い競争社会・道徳なき社会を嘆く者です。
{写真は雪振る中の鵜の瀬のお水送り}(中日新聞3月3日朝刊)

朝顔に見とれた千代女と千代女の俳画に見惚れた者 2011/02/01(火) 14:49:26
加賀千代女は元禄16年(1703)加賀の松任生まれで12才にして岸弥左衛門の弟子になり、17才の時諸国行脚していた松尾芭蕉門下の各務支考と出会い、支考に学んだ江戸中期一流の女性俳人です。
朝顔を季語とする句を沢山詠んでいますので、故郷の松任市(現白山市)では朝顔を市の推奨花としています。
ところで「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は、千代女が20才代の前期に諸国歴遊の途中、現在の東京都港区三田の薬王寺の境内に霊水の出る井戸があるとの噂を耳にして立ち寄った際に詠んだものと言われ、この井戸や釣瓶は現存していますが、汲み上げはポンプとなっています。又井戸の前には「あさ顔につるべとられてもらい水」と刻まれた句碑が建立され、この下半面には「俳人加賀の千代女の朝顔に云々の句の井戸也」との碑文がありますが、「もらい水」は新仮名遣いですからそう古いものではないと思います。
ところが、調査不足かも知れませんが千代女の年譜には江戸に入った記録はなく、薬王寺に聞いても口伝のみであるとのことです。20才代前期の歴遊だとすると、23才の春には京の東本願寺参詣後、伊勢俳壇の中川乙由を訪問していますが、江戸方面の記録はありません。
「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は文字とおりの客観写生で、朝顔が釣瓶に巻き付いて水が汲めなかったという解釈になり、蔓を切ることが忍びないので近所からもらい水をした千代女の優しさが表れているのですが、後年35才の時朝顔「に」の助詞を「や」の切れ字に推敲しているのです。
千代女の故郷松任の聖興寺には、千代女の遺品などが沢山ありますが、庫裏に附属した遺芳館には何点かの俳画の中に、紛れもなく「朝かおや/つるべとられて/もらひ水」・・と3行に分けた千代女が切れ字を用いた真筆の句と、朝顔の蔓が這う釣瓶を描いた矢田四如軒の画があるのです。
俳句は一文字の違いで大きく句意は変わりますが「や」の切れ字によって感動の焦点が「朝顔」であることを強調し、早朝水を汲もうと井戸に行くと釣瓶が見当たりません。・・ふと辺りを見回すと、井戸端に朝顔が咲いています。朝顔のみずみずしい美しさに、しばし水を汲むのを忘れて見とれたという解釈にもなるのではないでしょうか。ところがどうしてか矢田四如軒は朝顔の蔓が這う釣瓶を真正面に描いているのです。したがって推敲前の句が矢田四如軒の脳裏にあったとも思えるのです。
千代女は絵も加賀前田藩の絵所に勤めていた矢田四如軒や名古屋の南画家八僊逸人(百川)、などから教えを受けたとも言われますが、千代女の「昼がほやひるのうき名も橋わたり」を代表する俳画は、橋脚と橋桁は力強く濃く書き、欄干や川の流れは薄い穏やかな曲線で描き、真筆の文字が絵と一体となっています。その他の俳画も文字配りと絵の配合が抜群で、お互いに引き立て、蝶が飛ぶような、又はせせらぎの流れのような風情があり、千代女の才気が表れているのです。
千代女の句には「うつむいた処が臺や菫草」がありますが、臺(うてな)とは仏様の台座のことで蓮座とも言います。剃髪後の自分を菫に喩え、仏の掌に生かされている幸せを感じているのです。
この句は千代女が六十才の時、越前あわらの吉崎御坊詣をした折に詠んだ句だそうですが、十八才で結婚、二十才で夫と死別、五十二才で剃髪と過酷な運命を受け入れながら、幸は心の持ちようで、どこにでも浄土があると謙虚に思い、七十三才まで美しく生き抜いた女性なのです。
蕉風発祥の地碑を訪ねて 2010/10/30(土) 08:33:25
蕉風発祥の地は名古屋とされ、現地には以下のごとく名古屋市教育委員会が説明板に記載し、地碑が建立されています。
【この地は貞享元年(1684)の冬、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中、名古屋に立ち寄り、岡田野水、山本荷兮、坪井杜国、加藤重五ら土地の青年俳人らと、七部集の第一集「冬の日」の歌仙を興業したとこおろである。
この「冬の日」こそ芭蕉がことばの遊戯でしかなかった俳諧を初めて芸術の領域まで向上させた句集で、この歌仙を興業した場所を「蕉風発祥の地」とよんでいる。
この場所は「宮町筋久屋町西入南側」現在のテレビ塔東北の脚あたりと推定される。】
この地碑には「冬の日」五歌仙の巻頭部分の「笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりの嵐にもめたり、侘尽したるわび人、我さへあはれに覚えける。むかし狂歌の才子、此国にたどりし事を不図おもい出て申侍る。
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
たそやとばしる笠の山茶花 野水
有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふあかむま 重五
朝鮮の細りすすきのにほひなき 杜国
日のちりちりに野に米を刈る 正平
この「冬の日」は山本荷兮が編者となってまとめ、貞享2年に刊行したもので、巻頭の部分と芭蕉句の意は次のとおりと解される。
「笠は長旅で受けた雨のためほころび、紙衣はたびたび受けた嵐のため皺々になっている。侘びを極めた侘び人のようで我ながら哀れに思えるのである。昔狂歌に長けた人がこの尾張にやってきたことを、ふと思い出したので発句を詠んだ。」
「木枯らしに吹かれ、あちらへこちらへと、狂句を吟じながら漂泊を続ける身は、かの竹斎に似ているようである。」
ところでこの竹斎とは、富山道治作の仮名草子で、狂歌(江戸時代に盛んだった卑近通俗な機知や滑稽を詠ったもの。)詠みながら諸国を行脚、放浪した藪医者で、名古屋に流れ着いて開業している。狂歌の才はあったが、身なりは乞食然としていたようで、その姿で治療もしていたという伝説がある。
ところで、野ざらし紀行とは芭蕉死去の10年前41才の時、前年死去した母の墓参のため、江戸から東海道を上り、伊勢を回って伊賀上野で墓参した後、大和国から美濃の大垣、名古屋などを巡り再び伊賀に赴き、越年してからは京都など上方を旅して熱田に一時滞在し、甲斐国を経て江戸に帰還した長旅である。
「山路来て何やらゆかし菫草」は、この紀行の大津に向かう山路で詠んだ句とされている。
《写真は蕉風発祥の地碑であるが、芭蕉が名古屋に来た時、足をとどめようと、蕉門の呉服屋である備前屋の岡田野水が身元引き受け人となり、家主傘屋久兵衛より借りた家があったと言われている。》
