土地家屋調査士前史
「付録」花いっぱい運動のこと
身分保証の必要性の示唆
「・・・当国の風俗は、武士の風、天下一なり。百姓町人の風俗もその律儀なること、伊賀、伊勢、志摩の風俗に五畿内添えたるよりは猶も上なり、所以は義理強くして、臆することなく、百人に九十人は律儀なり。・・・・・」これは昭和2年当時松本税務署長であった28才の若き植木庚子郎氏(1960−1962年法務大臣.1971年法務大臣.1972年大蔵大臣)が、土地調査員中島実、赤羽根多知雄ら6人の前で、法的資格の付与による身分保証の必要性を示唆し、まず団結こそ根源であると信州の「人国記」から引用した激励の言葉である。
当時は税務署の委嘱に基づき、タバコ銭程度の報酬で他の業務(役場の土地係・土木・建築・造園・教師・測量士・司法書士・農業)等を主たる業としている人達であったが、この若さに燃える署長の示唆は調査員に強い衝撃となり、同年10月松本税務署会議室で調査員会結成総会が開催され、会長には望月織一氏、副会長に百瀬又太郎氏、幹事に11名の調査員がなり、顧問として署長の植木庚子郎氏と直税課長の平田捨三氏.地租主任の浅野勇氏が選任されたのである。特に顧問の三氏は出先機関と雖も官の役人で、そこに集まった約40人の調査員は、上気して県歌「信濃の国」を歌ったのである。
この県歌には県下の名所や地名が13ケ所も出てくるので、六番まで割愛できない歌であったが、「臆することなく。」の信州「人国記」の言葉で、上気した彼等はその意味を噛み締め、長き歌により長き戦いが始まったのである。
まずは研修会等の連続で組織強化と資質の向上、昭和12年の総会において中島実氏が会長、赤羽根多知雄氏が副会長に選任され、「土地調査員責任証紙貼用規程」により1枚3銭の証紙を一般事件には貼付することとし、これを原資として活動資金を得ることになり、資格取得に向けて全県的運動が展開されることになったのである。
請願運動の展開
昭和15年国会への資格付与に関する請願書を作成、長野県下313名の調査員連署により、昭和16年2月17日地元選出国会議員百瀬渡氏を紹介議員として第1回目の請願書が提出されたのである。この請願書の前文には「土地の異動整理に従事する土地調査員は従来大体に於て市町村長の推薦に因り嘱託せられたるも之を免許制度に改定せられ度。」とあり理由には「凡そ土地は一国を形成する領土にして国家存立の基礎たることは言うに俟たず・・・」とあり、明治政府から引き継がれた兵役・納税・教育の三大義務の内、軍備も教育も根幹をなすものは税金で、しかもその最たるものは地租(昭和2年には60%)であることを説明したものである。
昭和16年3月25日衆議院において採択されたが、法制に至らず、翌17年1月30日第2回目の請願書が百瀬渡議員、植原悦二郎議員(大正7年当選民主政治を唱えた。昭和21年国務大臣)が紹介議員として国会に提出されたのであるが、これまた衆議院で採択され貴族院でも採択されるも法制に至らなかったのである。
このようなことは明治憲法下においては奇異なことではなく、請願が国会で可決されても立憲君主制を採っていたので、法律案を政府が作成しなければ立法化できなかったが、昭和18年3月23日には衆議院建議委員会に請願建議という形式で、小野秀一議員により「2回も採択されたにも係わらず法制化しないのは不当である。」という趣旨で提出したものも採択されたが、太平洋戦争の戦況悪化により、これまた法文化して陽の目を見なかったのである。
戦後の昭和21年資格制度制定を示唆し、陰に陽に支えになっていた植木庚子郎氏も公職追放となり、地主制度の改革の農地調整法が施行され、10月21日には「自作農創設特別措置法」が施行されたが、中島会長は58才、赤羽根副会長は62才のため、新しい陣容で請願を継続することになり、岡谷市役所税務課において地租経験のある42才の若さの林義成氏が後継会長となった。
一回の請願でも当時のSLの夜行列車で朝に新宿に着くと、煤煙で黒くなった顔を洗い、Yシャツの襟の汚れを手揉みして洗い、紹介議員と会うにも不定刻、意見を聴して添削してから浄書、現代の情報化社会と違い、番記者のように足で稼いだ時代であり、ましてやエアコンもなく、中央線は特に買い出し人で大混雑、先人の努力は文明化社会に生きる今の若者にはわかるまい。
遂に法制化
昭和22年長野県下の土地調査員が「土地家屋整理士法制定に関する請願」のため、全国の同志を募り請願運動が再開され、翌23年にも請願が繰り返された。
昭和21年長野県全県選挙区から衆議院議員となった地元松本市浅間温泉の二世議員降旗徳弥先生は、昭和24年に過去の反省を踏まえて、新憲法に基づく議員提案という形を示唆し、降旗徳弥先生の父君元太郎氏の秘書のようであった長野県生まれの花村四郎議員(当時法務委員長)などの有志議員が、法制局・大蔵省・司法省等と法制協議に奔走し、昭和25年5月第7回通常国会に「土地家屋調査士法案」が提出されたが、時同じく提出されたシャ−プ勧告による土地・建物の税を国税から地方税とする法案が審議未了となり、関連する「土地家屋調査士法案」も審議未了となったのであるが、同年の第8回臨時国会に再提案され、最初の請願から苦節10年にして7月31日土地家屋調査士法が制定されたのである。
当時の法務委員には元総理の三木武夫氏、世耕弘一氏(現議員世耕弘成氏の祖父)、大蔵委員長が長野県出身の木内四郎参議院、土地家屋調査士全員が忘れてはならない群像である。
当初植木庚子郎先生から示唆された「武士の風靡を有し臆することない片田舎の土地調査員」が立ち上がってから23年、しかも太平洋戦争や自作農創設等困難な状況にも係わらず、耐えに耐えた「おしん」のような姿を思うと、我々現代に生きる土地家屋調査士も官のいうままではなく、将来の理想を求め続けて、いかなければならないと心に刻む者です。
「降旗徳弥回顧録−井戸塀二代」から
土地家屋調査士法の産婆役
昭和25年7月31日、第八臨時国会で土地家屋調査士法が可決成立し、全国関係者の悲願が実った。これは事の重要性を痛感した私が院内の中心となり議員立法として世に出したものである。
同法制定運動は戦前から十年にわたり血のにじむような努力を伴って続けられたが、その発祥の地は松本であった。戦前は昭和16年から三回にわたり松本の赤羽根多知雄、中島実君らを中心に国会への請願、建議が行われた。戦争の激化で一時中断したが、戦後再び運動は燃え上がり、22年以降は私が長野県土地家屋調査士会の要請を受けて国会請願の紹介議員となり、制定実現に努めた。
戦後税制改革が実施されるまでの土地家屋は国税であり、土地台帳、家屋台帳は税務署が管理し、調査測量、登記に携わる調査人は税務署に従属する形で活動していたが、法的資格もなく、何の保証もない不安定な状態に置かれていた。全国に先駆けて松本から法の制定運動が起きたのは、若いころ松本税務署長を努めた植木庚子郎さんが、地位の向上を求めて起ち上がるよう赤羽根君らに示唆したのがきっかけであったという。
ところで戦後、国会への請願は急増し、昭和24年には千8百件を超えていた。(中略)そこで24年以降、私は議員立法で実現する道を決断した。幣原先生(戦後初代総理)とも相談のうえ、花村四郎、田中角栄、原健三郎君ら30人近い賛成議員の名を連ねて土地家屋調査士法案を第七臨時国会へ提出したのは昭和25年1月であった。
官僚の組織、頭脳を土台としない議員立法には多くの制約、困難が伴うのだが、私は法制局、関係各省との間を調整して法律案の作成を進め、調査士会の諸君は実態資料の収集整理等に努力を傾けた。地方税法の改正に絡めて一挙成立をはかるという私の戦略は的中し、第八臨時国会で遂に成立をみたのである。(中略)私が同法制定に努力したのは、土地家屋の現況を正確に把握することは、一国を運営する基礎要件であることに着目したからである。それは国民の権益を守って公正な社会をつくると共に、適正な課税の基礎を明確にして国家財政の円滑な運営に資するものである。
聖徳太子の班田収授の際の測量や秀吉の太閤検地は土地測量の重要性を示した歴史的事実だが、藩政時代はむろんのこと土地私有制となった明治維新後はますます重要な事業となった。にもかかわらず技術者と法律家の両面を備えた調査士の身分、地位は長い間顧みられずに放置されていたのであった。
全国土地家屋調査士松本大会と降旗先生の逝去
降旗徳弥先生は初代全国土地家屋調査士会会長として、さらに制度の礎を築いたのであるが、これら長野県の先人達の功績は、不朽・不滅のものであるにも関わらず、その功績に対して何等表敬されず、偉業を忘れかけていた頃、平成6年10月3日全国土地家屋調査士松本大会が松本市民会館において開催された。幸いにも全国から2千余名の会員が集まり、自衛隊音楽隊のファンファ−レ響く中で、発祥の地記念碑の除幕式、記念碑内にタイムカプセルの収納、地図早期整備の大会決議、記念講演があったが、降旗徳弥先生は当時95才車椅子で参加されたが、除幕式のテ−プカットには寺田民事局第三課長と三浦連合会長の間の中央に自ら立ち上がり、44・45年前を回顧する目は晴れ晴れとしていたのである。
それから11ケ月後の平成7年9月降旗徳弥先生は96才の生涯を閉じられたが、松本市民会館での合同葬に参列した者として 「井戸塀政治家」降旗徳弥先生を偲び少し付記します。
付録 花いつぱい運動と降旗徳弥先生
井戸塀政治家降旗徳弥先生
降旗徳弥先生と言っても若い諸君は知らないであろうが、「新網走番外地」「極道の妻たち」「鉄道員」「ホタル」「赤い月」等の映画監督降旗康男氏の父君である。こう言う筆者も平成7年徳弥先生の合同葬(松本市・全国花いっぱい運動)までは、逆に三男が映画監督とは知らなかった。市民会館の2階の末席でも見える三文字ないし五文字の生花の芳名木札に「高倉 健・大原麗子・松方弘樹」etcは、役職名がなかったため鮮明に見えたからである。
降旗徳弥先生と言えば著書「井戸塀二代」のとおり、父君は立憲民政党の長老で衆議院11期努めた降旗元太郎氏、降旗徳弥氏は第二次吉田内閣の逓信大臣、同じ選挙区で労働大臣、官房長官、幹事長を努めた増田甲子七氏は松本中学の同級生、昭和6年父元太郎が死亡すると、父が残した負債整理4年間費やし、昭和10年長野県議会議員に当選するも、昭和14年には天候不順による大凶作に直面し、農業保険制度維持の奔走し、二代に亘り私財を投げ打って庶民のため尽くした「井戸塀政治家」、松本駅から他人の土地を踏まずに浅間温泉の自宅まで行けたとの逸話があるのです。
小松一三夢(勇)氏の幻
小松一三夢(勇)氏は、明治35年上伊那郡高遠生まれ、高遠は高遠藩の城下町として栄え、大奥絵島が幽閉蟄居させられた所、現在はコヒガンサクラの名所でもある。
小松氏は旧制上伊那農業高校卒業後、大正9年高遠高校の代用教員として教壇にたった。氏は外交官になるのが夢だったが、教育者になることは父の方針であり従ったのである。
しかし肺炎を患いながら長い間教壇の立ち(一時赤化運動推進役として追放)昭和22年松本市旭小学校時代には松本教組の副委員長として東奔西走した結果、2年後の昭和24年には胃潰瘍に腹膜炎を併発して教壇に倒れ、一時は危篤状態に陥ったが、そのころ小松氏は松本市内の病院において、市内の女鳥羽川の河畔に色とりどりの花が咲き、蝶が舞い、小鳥が囀る光景の幻を見た。 その川は三途の川であったと思うが、幸いにも渡らずに無事生還し快復してから、昭和27年の「花まつり」(釈迦生誕)の日、松本市内のある食堂に小松氏をはじめ同志8人が集まった。そこでこの話を皆にしたところ、会の名称を「街を花いっぱいにする会」と決定した。
この会は町内会やPTAの賛同を得たり篤志家から花の種7千袋の寄付を得て徐々に広がったが、まだ衣食が足りぬ時代で、中には「腹いっぱいの会」ではないかと皮肉も言われた。
しかし小松氏は怯むことなく、大病で痩せた体にむち打ち「花呼吸法」と自ら名付けた腹式呼吸法を体得して全国行脚を続けたのである。
「花いっぱい運動」と降旗徳弥先生
花いっぱい運動の会長は歴代の松本市の有力者が歴任され、昭和33年松本市長になられた降旗徳弥先生は、全国市長会会長になり、小松氏は降旗市長に対して花いっぱい運動の精神の話をして行政からの応援を求めた。
降旗市長は即座に花いっぱい連盟の会長を引き受け、補助金支出も確約したのである。それにより花いっぱい運動は地方規模から全国規模となり昭和36年の、「第一回花いっぱい世界大会」が松本市で開催された際には、大会会長として秩父宮妃殿下ご臨席のもとに海外から20ケ国、85人が参加している。
小松氏はいつも降旗徳弥会長と行動を共にしていたが、「戦後50周年平和記念第38回全日本花いっぱい松本大会」の前夜の平成7年9月降旗徳弥先生は大往生したのである。
これも何かの因縁と思うが、この大会に出席された紀宮様は、降旗先生の業績にふれて哀悼の意を表された。と後日行われた合同葬において、葬儀委員長をされた有賀市長が述べられたが、皇室の方が一民間人の名を挙げて称えることは異例なことだそうである。
その後小松氏は4月8日釈迦生誕の思い出の日を「花いっぱいの日」にすることを連盟の名で衆参両院議長に請願書を提出し、中曽根総理に対しては「花と緑」を国民運動、世界運動にすることを提唱している。
現在女鳥羽川の千歳橋のたもとには「花いっぱい発祥の地碑」が建立されているが、洞爺湖サミットにおいて地球温暖化対策の議長国であった日本は「花と緑」は国民運動としなければならないと思い付記したものである。
なお、筆者は生前の降旗先生に3回ほどお目通りしているが、「論語・子路」の「剛毅木訥は仁に近し」とは降旗徳弥先生そのものである。
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